アカデメイア」カテゴリーアーカイブ

マラカイトのパリュールの謎とカメオ

アカデメイア「宝飾品 〜肖像画の中にみるジュエリー〜」第3回、肖像画はデジレ・クラリーを取り上げました。デジレと聞いて、ああナポレオンの元婚約者で後にスウェーデン王妃になった人だ、とわかる人は相当の歴史オタクでしょう、日本では一般にほとんど知られていない人物といってもよいと思います(日本語ウィキペディアは作成されていますが)。

デジレ・クラリー

元デジレが所有していたこの美しいマラカイトで作られたパリュールは代々デジレの子孫に受け継がれていった後、1913年からノルディック博物館にて収蔵されています。ところがデジレがこのパリュールを身に着けて描かれている肖像画は今のところ見つかりません。

デジレのパリュール(現ノルディック美術館所蔵)

そもそもマラカイトのパリュールというのは非常に珍しいものです。それが高価だからという理由ではありません。マラカイト自体が宝石の中で特に価値のある石という訳ではなく、むしろ柱などの建材に使われるような素材。当時のヨーロッパの一国の王妃がパリュールを注文しようと思ったら、他にも高価な鉱物は沢山あります。マラカイトのパリュールというのは、宝石業界に長くいらっしゃる目黒佐枝先生も、ナポレオンの最初の皇后ジョゼフィーヌのパリュールと、デジレのパリュール、この2つしか見たことがないと仰っています。

ジョゼフィーヌのパリュール

今回の「謎」とは、いったいデジレはこのパリュールを身に着けたことがあったのか否か、もしかしたら自分との婚約破棄をしたナポレオンが結婚した相手ジョゼフィーヌがマラカイトのパリュールを作っていたので、自分も対抗してただ作らせただけではないのか、件のパリュールはスウェーデン王妃になった翌年から10年間くらいの間に製作されており、その時点ではジョゼフィーヌもこの世を去っている、自分はジョゼフィーヌに勝ったのだ、という証として作らせたのでは・・・と色々想像が膨らみます。

マラカイトという鉱物について、カメオやインタリオの歴史も含め、宝石学レクチャーもいつもながらのコンプリートな解説で、あっという間の1時間半でした。カメオも2層だけでなく、8層まで存在するのだとか。今回は4層、5層の作品を見せていただきました。

「人は嘘をつくが、ものは真実を語る」と言われますが、ものの中でも宝石は色々なストーリーが想像されて、更なる好奇心が沸き起こってきますね。

次回はウージェニー皇后とエメラルドについてのお話をいただきます。


フランス王妃マリー・ド・メディシスの冠:サンシー、ル・レジャンを題材に、ダイヤモンドの世界へ

大好評のアカデメイア「宝飾品 ~肖像画の中にみるジュエリー~」第2回はダイヤモンドについてのお話でした。マリー・ド・メディシス、言わずと知れたメディチ家のプリンセスでフランス王アンリ4世の二番目の妃ですが、この戴冠式の肖像画で彼女の王冠に留まっているのが Beau Sancy と呼ばれる35カラット弱のダイヤモンドです。

このダイヤモンドの元の持ち主である当時の収集家ボー・サンシー男爵からアンリ4世が購入したことで「ボー・サンシー」と呼ばれることになるのですが、その後巡り巡って2012年にジュネーブのサザビーズでオークションにかけられ、904万2500スイスフランで落札されました(落札者は匿名の人物)。

ちなみに同じ「サンシー」という名のついている、Le sancy(またはGrand Sancy)というダイヤモンドーこれも同じ収集家ボー・サンシー男爵由来のものですがーこちらはイギリス王、フランス王、ロシアの王子、インドの王子、と所有者が目まぐるしく移転していきますが、現在ルーヴル美術館に収蔵されており公開されています。前述のボー・サンシーよりさらに大きく、55カラット超えです。

そして同じく現在ルーブル美術館に収蔵されている、さらに大きく140カラット超えの「ル・レジャン」、この名の示す通りルイ15世の摂政(=Regent)であるオルレアン公フィリップが購入したことでこう呼ばれています。ルイ15世、ルイ16世、ナポレオン1世、ルイ18世、シャルル10世、ナポレオン3世、ウージェニー皇后と歴代の国王や皇帝が所有してきた来歴の宝飾品です。

やはりダイヤモンドは宝石の中でも単に高価というだけではなく、地位や権力が伴う石として、歴史的にも多くの逸話が残されています。

目黒先生の講座は、この後科学のお勉強へと続きます。ダイヤモンドがどのようにして地球で形成され地表に上がってくるのか、ダイヤモンドの歴史的産地はどこなのか、現在ではどのような方法で産出が試みられているのか、ダイヤモンドはどういったタイプ別に分類されているのか、そんな専門的なお話に、インドの地理に詳しくなってしまいました。

ところで5月にはロンドンでチャールズ3世の戴冠式が予定されていますが、かつて世界最大のダイヤモンドと呼ばれ、最終的にヴィクトリア女王がインドの皇帝も兼ねたことからイギリス王室のものとなったコ・イ・ヌール、これを戴冠式でカミラ王妃が王冠に使用しないことがイギリス王室から発表されたということです。このダイヤモンドの所有権を主張している声はインドのみならずパキスタン、アフガニスタンなどからも上がっており、彼らからすれば「大英帝国に略奪された」ダイヤモンド、さすがにこの時代に堂々と付けられないのでしょうね。

次回はカメオについてのお話です。お申し込みは随時受け付けています。


アカデメイア「宝飾品 ~肖像画の中にみるジュエリー~」がスタート!

G.I.A.G.G.の資格をもつ目黒佐枝先生によるジュエリーのアカデメイアがスタートしました。先月のAEAOサロン倶楽部ではジュエリーの原石を見て鑑別の方法などを学ぶアトリエが大好評でしたが、このアカデメイアでは更に1つ1つのジュエリーを掘り下げ、またジュエリーを歴史的に紐解いていく、奥の深い講座です。

第1回は、真珠。多くの人がご存知のように現在の主流は養殖真珠、これは1893年にMIKIMOTOの創業者・御木本幸吉氏が世界で初めて真珠の養殖に成功したことによります。そう考えると、それ以前の真珠はすべてアンティークの、つまり天然真珠だろうと考えるわけですが、どうやらそうでもなさそうです。

この肖像画を見てみましょう。17世紀に活躍した書簡家・セヴィニエ公爵夫人の肖像画です。書簡家というタイトルは、最終的に彼女が娘さんに多くの手紙(1500通にも達したそうです)を書き、最終的に残されたこれらの手紙が当時の貴族社会を知る貴重な資料となっていくことから後に付けられた職業名でしょう。

このネックレスとイヤリングの真珠、これは本当に天然真珠なのでしょうか。目黒先生のお話は謎解き形式で始まります。天然真珠の産地はどこか、当時どのようなルートでヨーロッパに入ってきたのか、この肖像画に描かれている真珠の粒のサイズはどのくらいか、当時の物価を今のレートに計算すると、この真珠のジュエリーはいくらくらいと想定されるか・・・そんな中で、模造真珠という人造真珠が17世紀に存在していたというお話に入ります。

この有名なフェルメールの絵画に描かれているイヤリングは模造真珠だろうとされています。

そして当時のやんごとなき階級の人々のジュエリー事情において、本物の天然真珠と模造真珠は両方所有していたらしいこともわかってきます。

さて、結論は・・・!?

講座ではなかなか手に入らないG.I.A.の画像もふんだんに見せていただき、また17世紀半ばから作られていた模造真珠に関する図版など、実に多岐にわたる資料を元に、真珠に関してのレクチャーをいただきました。

次回はいよいよジュエリーの王者、ダイヤモンドの世界に入ります!

今回のアカデメイアを逃した方、以降はオンデマンドの受講が可能ですので是非この貴重な授業のお申し込みをお待ちしています。


2023年初のアカデメイアは、可愛い絵本の挿絵のおはなし

「19世紀のイギリスとフランス ~モノ、コト、流行~」の最終回は、挿絵本のおはなしでした。中山久美子先生がこのテーマを思いついたきっかけを尋ねると、ヴィクトリア朝のイギリスでなぜ絵本が流行ったのかを調べてみたいと思った、ということだそうです。そう、今や絵本は絵本作家とイラストレーターで作りますが、その始まりは小説に挿絵をつけて印刷されていたのですね。

挿絵はどのように生まれて発展していったのか、まずはその挿絵の歴史から丁寧に説明していただきました。中世の装飾写本にはじまり、やがて紙に印刷する木版画、活版印刷、銅版画、木口木版、リトグラフ…実際に自らの手で手がけた経験がないとこのような技法はなかなか頭に入りませんが、作品を見ながら説明を受けると実にわかりやすいです。

挿絵の入った出版物が流行になった19世紀、その背景には産業革命により印刷コストの低下、識字率の向上といった背景がありました。

また「子供」に対する意識の変化も生まれます。従来子供は不完全な大人とされ、たとえば洋服でも食事でも、今のように子供用という区分はかつてはなかったのです。また子供=愛らしい、無垢、天使、というような概念も近代になって生まれたものでした。かつては乳幼児死亡率も高く、大人になるまで生きられて初めて一人前の人間と認められたのかもしれません。

そんな子供にフォーカスし、子供に新しい考え方を与えたのが、かの18世紀の啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーでした。彼は自然を大切にし、子供は自然に従って育っていく、その可能性に価値を見出したのです。マリー・アントワネットが自分の子供を自分で育てるようになったのも、ルソーの教育論『エミール』の影響が大きいと言われています。もっともルソー自身は自分の子供五人を孤児院に送り込んだという有名な話もありますが。

さて、ヴィクトリア朝のイギリスでは、ルソーの思想が発展し、子供の存在が「愛すべき、大切な」ものへと受け継がれていきます。なぜルソーのお膝元フランスでなくイギリスだったのか、この辺りはまだまだ調べてみたいと思いますが、フランスの19世紀は政体が目まぐるしく交代し戦争や革命で価値観も移ろっていく中、イギリスでは一早い産業革命の完成と中間層・富裕層の確立という安定した社会であったことも要因かもしれません。

その結果、「ファンシー・ピクチャー」なるものが流行し、やがて絵本の流行へと結ばれていきます。

誰もが知っている『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』に描かれている挿絵を思い浮かべられる人は多いでしょう、この作品がなぜ不滅の名作となっていったのか、これはジョン・テニエルの挿絵によるところが大きいと言われています。テニエルは当時の売れっ子挿絵画家でした。他にもウォルター・クレイン、ケイト・グリーナウェイなど挿絵画家についてご紹介いただきました。

版画の所蔵で有名な川崎市市民ミュージアムで学芸員をされていた知識と経験で、版画という複製芸術に思い入れのある先生ならではのレクチャー、有難うございました。

今回にてアカデメイア「19世紀のイギリスとフランス ~モノ、コト、流行~」5回コースは終了です。来月からは、新シリーズ「宝飾品 ~肖像画の中に見るジュエリー~」5回コースがスタート。お申し込みは随時受け付けています。


2022年最後のアカデメイアは『自転車と新しい女』

本格的に冷え冷えの季節となりましたが、幸いアカデメイアは自宅オンラインでの講座、温かい飲み物を手に今回も楽しく行われました。

「19世紀のイギリスとフランス ~モノ、コト、流行~ 」の中で今回は自転車を取り上げます。かつて移動手段の乗り物は馬・馬車、そして船しかなかったのですが、19世紀になると新しい乗り物が出現します。その一つが自転車。移動手段であるとともに、スポーツとしても流行ります。19世紀末には量産体制も整い、最初は富裕層男子の遊び道具から、一般の人も利用できる乗り物に進化するようになったようです。

スポーツが盛んになっていく19世紀後半、これまで家の中で家事をしていたことが良しとされた女性たちも少しずつ外出するようになり、やがて男性に混じってスポーツに参加するようになります。自転車もその対象となるのですが、当時流行っていたモードは、といえばクリノリンに代表されるようなロングドレス、そのままでは乗ることができず、アメリカの女性解放運動家・ブルーマー氏が支持した膝下まで丈があるズボンとショートドレスの組み合わせのようなウェアをはく女性が現れるようになります。ちなみに日本でかつて女学生が体育の授業で履かされていた「ブルマ」はこの名前から来ています。

こうしてブルーマーを履いて自転車に颯爽と乗る女性たちは「新しい女(New Woman)」と言われ、時には揶揄されたり風刺画の対象になったりしながらも、やがて文字通り新しい女の時代の到来となるのでした。

その後の自動車の時代には、もちろん男性の方が多数派だったとはいえ女性が運転することに、自転車ほどの議論は起こらなかったと思います。そして今や女性の飛行士も普通にいるくらいですから、新しい女もすっかり時代の流れに乗ったということになりますね!